平成24年度 4月おしらせ

なぜこどもたちをたいせつにすべきなのか

 なんてあたりまえの事を問うのだろうと感じられる人もおられるでしょう。日々親である私たちは、理屈よりも感情としてこどもをたいせつにしています。けれども、こどもたちにどういった育ちの環境を与えるべきなのか、大人はこどもたちに何をすべきなのかと考えるときには、理屈として考えておく事も大事と思うのです。どうしてこどもをたいせつにすべきなのか、この問いについて具体的に感じる事ができる映画があります。「トゥモロー・ワールド」(2006年)というクライヴ・オーウェン、ジュリアン・ムーア主演のSF映画です。18年にわたってひとりもこどもが生まれていない未来社会を描いた映画で、とても暗く重苦しい空気に包まれています。なぜ、そんなに暗いのか、こどもがひとりもいないからです。私たちは、いつか死にます。「人間、致死率100パーセント」とは養老孟司さんの言葉ですが、生まれれば死ぬのです。自分が参加し、支えてきた社会を次の世代に受け取ってもらう、これはいつか死ぬ人間が、その死ぬ日まで社会を成立させ維持してゆくためにとても大きな支えとなります。人間は自分が生きている事について強い動機付けができなければ「よく生きる」ことができません。楽しいことで人生をちりばめてみても無駄です。お釈迦さまの出家の理由だってそこにあったのですから。次の世代に私たちが生きて来た社会をそのまま受け取ってもらう、その手渡すことを信じることができるからこそ、大人である私たちも「よく生きる」チャンスを得る事ができるのです。だからこれから成長するこどもたちのために、大人たちはできるかぎりのことをしてあげるべきなのです。

平成24年度 5月おしらせ

天才を生む場所とは

 天才を生む幼稚園!?評判を呼びそうなこのステキな響き、園長はメロメロです。だからもう少しばかり詳しく見てゆきましょう。
これまでに天才と呼ばれる人々がいました。古くはプラトンやソクラテス、ミケランジェロ、ダビンチ、アインシュタイン、ピカソ、この頃ならスティーブジョブズ!
実は歴史上天才と言われるひとたちは、ある年代、特定の場所に集中的に登場したことが確認されています。統計学者デヴィッド・バンクスさんの「多すぎる天才」という論文がそのことについて記述しています。実際先にあげたプラトンとソクラテス、ミケランジェロとダビンチは同時代に同じ街で登場しました。そして、バンクスさんはなぜ、天才は特定の時代、場所に集中して登場したのかに興味をもったのです。その三つの条件をあげると、「多様な人間の交流があった場所」「教育と学習の新しい形を切り開いた場所」「リスクを取ることを支援するような社会システム」ということになります。より詳しい説明はこの文章のもとになったコラムで読むことができます。 
http://wired.jp/2012/04/06/cultivating-genius/
じつのところ園長は、「こどもを天才にする教育」にあまり同意できません。カクカクシカジカといったハッキリとした理由はありませんが、なにかイヤな予感を感じるのです。ただ、間違いなく言えるのは、天才として生きることはステキだけれども、そのことが個人の人生を幸福にするとは限らないことです。園長が教育を通してこどもたちに望むことは、充実した確かな生を生きることです。自分で学び自分で考え、友人を大切にして、責任ある大人として社会の一端を担って行ってもらうこと、私たちが先の世代から受け取ったこの社会を受け取り、引き継いで行ってもらうこと、人間にとって「確かに生きる」ことは天才になることよりもずっと大切だと考えています。
ところで、先にバンクスさんがあげた三つの条件は統計学的にみた天才を生む環境です。それはなにか特別な教育をして天才を作るのとは違います。「多様な人間、文化」があって、「新しい形の教育」があって、「リスクを取ることを支援」した社会に天才と呼ばれるひとが集中して生まれたという発見です。一般に英才教育と呼ばれるものには警戒心を除けない園長ですが、バンクスさんのあげた三つの条件については大賛成です。わたしたち大人で、そんな天才が生まれるような環境を目指したいものです。

平成24年度 6月おしらせ

想像力!

 バザーの月になります。園児たちにとっては作品展の月、それぞれの教室では作品展に向けた制作がはじまっています。幼稚園では教育として絵を描く、工作をつくることを重要視しますが、それはこどもたちがこれから必要とするちから、集中する、楽しむ、考える、創造する、手先をつかう、工夫する、表現する、といったちからを育てるためであります。先の事柄に加えて園長は先生方に「柔軟な想像力を育むように」と毎年お願いしています。その、想像力とはなんでしょうか。
想像力とは「いまの自分には思いもつかないようなことが存在するってことを知ることです」泣いている友だちがいる、自分にはその泣いている友だちの気持ちが理解できないけど、きっとものすごくつらいのだろうなぁと思って、その泣いている友だちに接する、それが想像力の使い方です。「なんで泣いているんだよ!おもしろくないなぁ!」と、いう反応だけでは世の中衝突ばかりになってしまいます。「きみの気持ちはわかるよ」という言葉、よくなぐさめの言葉として出て来ますが、これはたいていなぐさめになりません。なぜなら「ひとの気持ちはわからない」というのが真理だからです。ひどいこと言うなぁとお思い方もいらっしゃるでしょうが、お釈迦様の教えです。だから想像するちからが大事になるのです。
昨年の震災を経て日本では悲しみに沈むひとに「よりそう」という姿勢が言われ始めました。「よりそう」というのは「あなたの悲しみはわからないけどそばにいます」という姿勢です。「ひとの気持ちがわかる」などと傲慢な考えで接するのではなく、「ひとの気持ちがわからない」という切ない現実を正直に受け止める誠実さがなければ「よりそう」ことはできません。こどもたちがこれから生きてゆくうえで、楽しいことがあるならばその同じぶんだけ、かなしいこと、つらいことがあります。かなしいとき、つらいときにもっとも必要なちからは想像力です。そして友だちに思いやりを持って接することは、自分の生活を生きやすくする一番の方法です。仏教も、キリスト教も、イスラム教も「ひとに思いやりを持ちなさい」と教えています。思いやりのない世界に住めば、誰でもいずれ心が壊れてしまいます。

平成24年度 7月おしらせ

こどもにとって本当に必要な遊びとは

 こどもたちの遊びは学びです。遊びを通して講義スタイルでは学ぶことのできない大切なことを身につけるのが幼児期の教育です。遊ぶことは時間の浪費ではありません、幼稚園では遊ぶことをとおして学ぶのです。
ところで、こどもたちにとってどんな遊びが成長につながるのでしょうか。脳を鍛えるという視点から茂木健一郎さんの言葉を引用したいと思います。
『与えられたルールの中で得点を競うのではなく、自分たちで工夫し、決めて楽しむ。このような子どもの遊びの中には、後に、社会に入り、力を合わせる時に必要な叡智が隠れている。自分たちの置かれた状況を客観視する、「メタ認知」が機能し、そして「場」を生み出すのだ。』
また、脳をもっとも鍛えるのは「人に頼ったり、安易な答えを求めずに、自分で考え、感じ、動くことです。」ともおっしゃっています。
上記のことから、大人がルールを決めて遊び方を教えたり、既製品の玩具を与えることは、最善の遊びではないことがわかります。こどもたちにとって一番の遊びは、友達と一緒に、自分たちで決めて遊ぶことです。こどもたちが空き地で勝手に遊ぶことが難しくなったいま、幼稚園ではそんな友達とのかかわりを重要視した教育を心がけています。

平成24年度 夏季保育おしらせ

どろんこのいみ。

どろんこは汚れるのがよいです。
初めてどろんこ遊びをするももさんやばらさんは、衣類が汚れるのをとてもおそれます。すこし衣類に砂がついただけで、「よごれた!よごれた!」って先生に知らせます。先生は「今日はドロッドロに汚れてもいいのよ」と言って、どろんこ遊びをさせようとしますが、なかなか汚れることになじめないこどももいます。一方で、ゆりさん、さくらさんになると、ずいぶんとどろんこの遊び方に慣れてきます。どろんこの水たまりに飛び込んだり、頭から泥水をかぶる子もいて全身文字通りドロッドロになります。そして、彼らはとても清々しい表情で笑います。
私たちは日常生活のために、常に自分たちの行いを縛っています。汚れないように、汚さないように、危なくないように、それは社会生活を営む上で必要なことではありますが、ずっとそんな生活をしていると心が窮屈になります。どろんこ遊びは汚れた方がよい、きちゃない方がよいという理由は、どろんこで汚れることで、そんな日常の窮屈さから開放されることにあります。日々、清潔であることを求められているからこそ、徹底的に汚れることで心が開放されるのです。
こどもたちにとって成長は、自分の殻を破り続けることです。それまでの自分を客観視して、より広い視野で自分と自分をとりまく世界を眺めることができるようになることが、自分の殻を破ることです。それは、生活のいろんな所で起きうることですが、どろんこ遊びは、特別に大きく自分の殻を破るきっかけになります。
どろんこ遊びは他にも良いことがあります。身体を動かし、肌を砂のザラザラした、泥のねちょねちょした、日向のぬるい水たまり、日陰のさぶい水たまりにさらします。これらは幼児期に脳を育てる貴重な刺激であります。そして、どろんこ遊びをすればきっと、いろんなバイ菌や微生物にも接触します。これはこどもたちの身体の免疫システムの訓練です。とかく清潔な環境であることを言われる現代生活ですが、バイ菌にあわなければこどもたちの身体は強くならないのです。
さて、どろんこ遊びはほんとうに良い事ずくめですが、気持ちよく遊べるのも夏のわずかな間、思い切り遊び込ませてあげることが大切です。

平成24年度 9月おしらせ

本当にたいせつなことは せなかで教えるしかない。

 数のかぞえかたは、ひとつ、ふたつ、、、、。朝には「おはよう」晩は「おやすみなさい」、こどもが成長し、社会の一員となれるように大人が教えることはたくさんあります。けれども人間としてたいせつなことの中にはどうやって教えたらよいかわからないものもあります。たとえば「生きる力」とか、「自ら考え学ぶ」とか「友達を大事にする」とか、、、、。どれも数の数え方を教えるように教える事ができないことです。理屈をつけて説明するにも無理があります。例えば「友達を大事にする」ことを損得の理屈で教えたら「友達を大事にする」こと自体が壊れてしまいます。どうしたものでしょうか、実は「これこれこういう理由だからこうするのだよ」という論法自体が間違っているのです。私たちは自分が生きていることの理由をしりません。自分の存在理由とは、むしろ多くの宗教者や哲学者がその全人生を捧げて問い続けたことであります。理由で語れないことはきっと山のようにあるのです。それでこどもたちに教えなければならないたいせつなことはあるのです。そして、そのたいせつなことは、たいてい大人の背中を通してしか教えることができないのです。
作家の井上ひさしさんがこどもの本離れについて書かれたときに、「大人が夢中になって本を読まなければだめだ」とおっしゃいました。(園のウェブサイト、えんちょうのところ、平成22年5月のおしらせ文参照のこと)
私自身も、大学に入ってそれまでよくわからなかった現代美術を観る楽しみを知ったのは、教授や講師の先生方が学生の前で作品を観て楽しむ姿を通してでした。きっと、「一生懸命にやる」ことのたいせつさをこどもが学ぶのは、誰かの一生懸命な姿をとおしてでしょう。せなかですよ、せぇ、なぁ、か!

平成24年度 10月おしらせ

早期教育って

 普通よりはやく話せるようになる、幼稚園児なのに漢字が読める、書ける、九九ができる、英語ができる、水泳、逆立ち、、、こどもたちが「できるようになる」ということを目撃し、その成長を実感することは、私たち大人にとってとても楽しみなことです。こどもたちが「できるようになる」ことに早すぎるはありません。小学生で物理学に興味を持ったってかまいませんし、スポーツの世界では(一部ですが)年齢のわりに高い能力を持った子供たちがいて、こどもの頃からその競技のアスリートになるステップを踏んでいます。だから、いまの社会はこどもたちが早く「できるようになる」ことについてとても熱心だと言えます。
一方で、やや過熱した早期教育について注意を呼びかける声もあります。イギリスのレポートですが、早期教育で小学校の内容を多く学びすぎることによって、小学校での学習に興味を持てなくなったり、学ぶということに対して油断を生じさせ、かえって学びについてゆけなくなるリスクが存在するといいます。そして、早期教育(特に学習面)で得た同年代にたいする優位性は小学校高学年までに消えてしまうとのことです。

 園長は今の物質的に満たされた社会では、学びにたいする興味こそが一番大切であると考えます。ただ暗記するのではなく、感じ、考え、楽しみながら学習してゆくことが大事なのです。
幼児期は心も身体も脳も大きく成長し、大人になるための成長の基礎をつくる時期です。様々な体験に身をさらして、身体を動かして、自分で感じて、興味を持って向き合うことを身につける時期です。友達と遊んで答えのない問題に繰り返しぶつかり、社会性を育てる時期でもあります。そんな人生に一度しかない大切な時期に、先の学習を先取りするために、体験し、身体を動かし、友達と遊ぶ機会を失うとしたらそれはとても危険なことだと考えます。だから私たち大人は早期教育の内容、あり方についてもっと注意深くあるべきです。

もしもこどもをイノベーティブな人間に育てたいのであれば、素直で謙虚でありながら権威を疑う能力を育てることこそが大切です。これはMIT(アメリカ マサチューセッツ工科大学)の先生や発明を行うベンチャービジネスの起業者さんが言っていることです。

平成24年度 11月おしらせ

間違いのない学びなんて。

 昔から「こどもはほめてそだてる」と言いますが、褒めるにもいろいろあります。
その一、「賢いね、頭いいね」と褒められたこどもは間違いをおそれるようになり、間違いをおかした後も正解率は下降する傾向にあった。
その二、「努力したね、がんばったね」と褒められたこどもは積極的に学ぶようになり、結果間違いをきっかけとして正解率が上昇した。
 これはスタンフォード大学キャロル・ドゥエックさんの研究、ニューヨークの学校でおこなった研究結果から導きだされたものです。人のマインドセット(知能にたいする人間の姿勢)は二種類あるといいます。「自分の知能はこのくらいであり、ほとんど変えることはできない」という固定的な姿勢、「必要な時間とエネルギーさえ費やせば、ほぼどんな能力も伸ばすことができる」成長志向の姿勢、の二種類。そして成長志向の人は間違いから学ぶ能力が有意に高いことが確認されているそうです。
ミシガン州立大学ジェイソン・モーザーさんの研究では「間違うことによって人は適切に学ぶ」ということが脳波計の検出によって確認されたともあります。エラー陽性電位(Pe)ってのが大切なんですって。
 私たち(私だけかな?)は普段何気なく間違わないことが一番良いことだと考えています。だから、こどもが間違ったときには罰を与えて間違わないように教育しなければならないと凝り固まった見方で対処します。上の研究結果からは、間違うことこそが適切な学びのきっかけであり、間違いを遠ざけてばかりでは学びからも遠ざけてしまうということを見つけられます。
さて、私たち大人はこどもたちが間違ったときにどう振る舞うべきでしょうか。考えるべきでしょう。園長が簡単にまとめてしまいましたが、オリジナルのコラムはこちら。

http://wired.jp/2011/10/18/「より速く適切に学べる人」:その理由/

平成24年度 12月おしらせ

いただきますの意味

ツイッターでみかけた話です。
「いただきます」と言って昼メシを食おうとしたら「自分で金払っているのに『いただく』って変ですよ」と後輩に言われた…TVの中だけかと思ったら、こういうの本当にいた。俺は言った。「キミが食おうとしているのは金だ。俺が食おうとしているのは命だ。この意味くらい分かるだろ?」

 キリスト教では牛や豚、鳥、魚、野菜、私たちが口にするものは神様が人間に与えて下さったものだと教えます。だから、キリスト教のひとは食事の前に神様に感謝をしていただきます。仏教ではそんな人間に食物を与えてくれるような超越的な存在がおりません。ですから仏の教えでは人間の命もアリンコの命も、牛も豚も鳥も魚もミジンコも皆等しい命と言います。そして仏教の戒律では生き物の殺生を禁じています。上座部仏教(お釈迦様の教えだけを忠実に受け継ぐ宗派)のなかには、自分が一歩足を踏み出すごとに小さな虫を踏みつけて殺生しないよう、常に自分の前を帚で掃きながら移動するお坊さんもいます(これほんと)。だから大乗仏教の宗派では肉食をしないところが多いのです。
 浄土真宗では、そんなに殺生しないようにと気をつけていても、自分が生きてこの世に存在するかぎりは 自分のわからないところでいくらでも他の命を殺しているのが人間という存在だと教えます。ですから親鸞さんは、そんな自力の功徳にこだわるよりも、自分の命が他の命をいただく縁によって成り立っていることを自覚して生きなさいと教えているのです。「いただきます」という言葉はそんな自分の命ありかたを見つめる言葉です。

平成24年度1月おしらせ

ほんとうのわたし

 ほんとうの私をさがそうなんて言いますが、仏法で言えば人間は置かれた環境、立場でコロコロ変わるものだと言います。私という存在、そして意識自体が自分を取り巻くものとの関係(縁起)によって生起するわけですから、私を成り立たせているもの(縁起)が変化すれば当然私も変化します。本来あるべき不変の私などどこにも存在しないのです。
 今月もいきなりの仏法ネタでかなりややこしい始めかたをしてしまいましたが、これを幼児教育にあてはめるとどうなるのでしょうか。幼稚園児たちは最年長でも6歳、とても幼い年齢のこどもたちです。その6歳のこどもたちがはくい幼稚園では年長さくらさんとして先生のお手伝い、年少のこどもたちのお世話、寝かしつけ、年末のお掃除、ありとあらゆることに大活躍します。幼稚園では年長さくらさんというのはとても頼もしい、頼りがいのある存在なのです。人間を育てるのは教え導くことだけではありません。それなりの立場に立ってもらって役割をはたしてもらう事も大切な「子育て」なんです。こどもたちが年中さん、年長さんに育ってきたら頼ってあげて下さい。お買い物の手伝いをしてもらったり、掃除をしてもらったり、そしておわったら「あなたのはたらきにみんなよろこんでいるよ」と伝える事が大切なのです。平成23年11月のおしらせ(園のウェブサイトで読めます)にも書きましたが、そうして頼ってもらって、自分は周囲の役にたっていると感じること、これがこどもたちの「生きるちから」を養うことでもあるのです。
 さて、ほんとうに頼りがいのある存在のさくらさんですが、そんな彼らも小学校に入ると上級生にお世話されてフニャフニャの一年生になってしまうそうです。そんなはなしを聞いて仏法なるほど当たっているなぁと実感する園長であります。

平成24年度2月おしらせ

M、I、T!

MITってご存知でしょうか、パソコン好きの園長にはとってもすごい大学なんですけど、アメリカにある先端の知性を扱う有名校です。
そのMITにあるメディアラボの現在の所長さんが伊藤穣一さんと言って日本のひとです。そのひとがおっしゃっているのですが、「教育」と「学び」は違うそうです、そしていまの時代に重要なのは「教育」ではなくて「学び」、学ぶことにたいする情熱、学びを広げるための人間関係をどうやってこどもたちに授けていくのか、そこをやらないかぎり授業をいくらデジタル化しても意味がないということです。かつての社会システムでは、こどものときだけ学んで、学び終わったら大人になり、同じ仕事を繰り返しながらもっているものを守り、こどもをつくるというのが人の一生のモデルでしたが、いまの時代は学び続けなければ死んでしまう時代だといいます。そして、今回の文章でここを一番推したいのですが、メディアラボには「ライフロング・キンダーガーデン」というクラスがあるんです。先端知性の大学なのにlife long kindergarten、生涯幼稚園なんです。そこをまとめるレズニック教授はこうおっしゃっています。
「幼稚園では遊びながら、共同でものを企画したり、作りだしたりします。たとえば子供たちは、レゴや積み木で塔や建物を作りながらいろいろなことを学びます。構造や安定性に関すること、どうすると倒れずに立ち、どうすると崩れるかなどです。
クリエーターを生み出すには、ものをつくる機会を与えることが必要です。でも、残念なことに幼稚園以降の学校は自分で企画したり、創造したり、実験したりする機会を与える代わりに、情報をただ伝えるようになるのです」
この幼稚園の学びのシステムをより高い年齢のこども、そして若者、大人にいたるまで適用できないかと設置されたのが「ライフロング・キンダーガーデン」なそうです。幼稚園をやっていてとても元気の出るおはなしです、園長も入園したいなと思います!?
MITとはマサチューセッツ工科大学のことです。

平成24年3月おしらせ

未来予測

 今年もご卒園の季節になりました。長年幼稚園で親しんだ年長さんとおわかれすることは、とてもさみしいことであり、そして無事に小学校へおくりだすことができることの達成感を味わうことでもあります。さて、いまの園児たちがこれから生きてゆく世界はどうなるのでしょうか、学びというものを中心に見てみましょう。
 いまの時代に必要なことは「教育」ではなくて「学び」だということ、2月のおしらせに書いたMITの先生のお話でした。実際たくさんの高等教育の内容がインターネットを使って広く公開されはじめています。iPhone、iPadと言ったアップルのiOS製品ではiTunes Uというソフトを使って無料、もしくはひじょうな低価格で大学の授業をみて、受講に必要な教材も入手できます。毎年100人ほどの学生を担当しているスタンフォード大学の先生が、自分たちの授業をインターネットで全て(つまり実際の受講生と同じ内容)公開したら登録者が予想を大幅に上回る(3000人くらいだと考えたそうです)16万人だったという話があります。
 そんなに授業内容をインターネットでばらまいて、大学の経営は果たして大丈夫なのかと心配してしまいますが、大学の先生方は広く自分たちの知識が公開され、反応があることに興奮しているようです。実際、授業を公開したスタンフォード大学の先生は、これまで大学で学ぶチャンスを得ることができるのは、授業料が無料になるくらいの成績優秀な学生か、高額な授業料を支払うことのできる裕福な学生の、ごく一部の限られた人間だったと言っています。そして、これまで大学で学ぶ機会がなかった大勢の層に授業を公開してゆくことをひじょうにエキサイティングなことだと言います。
 さぁ、学ぶ熱意があれば高度な教育がゴロゴロころがっている時代になりそうです。
えっ、英語だからわからないって!?流暢に英語をあやつる必然性を園長は感じませんが、たどたどしくとも、英語が読めて聞くことができれば世界はぐぐぐんっと広がりますよ。興味を持ったことについて知るためならば、辞書片手に英語を読むのもまた楽しいものです。