平成26年度4月おしらせ

幼児教育、再点検

 いま、幼児期にうける教育が重要だとされています。来年(平成二十七年度)からは「子ども・子育て支援新制度」が施行され(予定)、三歳以上のこどもたちに幼児教育をほどこすことが自治体の義務となります(移行期間あり)。幼稚園はこどもたちに幼児教育をほどこす学校ですから、全てのこどもたちが幼児教育を受ける機会を得るということはよいことだと園長は考えます。一方で、幼児教育というものがこどもたちにとって不可避の事柄になるのであれば、その幼児教育の中味についてよく注意しなければいけません。
 教育というと、運動を練習したり、字を覚えたりという印象があるのではないでしょうか。たしかに幼稚園でもそういうことを教えています。しかし、それは幼稚園教育も終わりに近づいた学年の仕上げの部分、ほんとうに大切な幼児教育とは、こどもたちに育ちと発達の環境を与えることです。こどもたちのあそびは、そのままこどもたちが身体を発達させ、その能力を伸ばしていくことと不可分の関係にあります。ですから、いつの時代においてもこどもたちの「学び」のはじめは「あそび」からはじまるのです。ゆるやかにこどもたちを「待つ」こともたいせつです。忍耐力のいることですが、こどもを信じて「待つ」ことは、こどもが大人を、社会を信じることの土台になります。こどもは信じられることを通して信じることを知るのです。
 こどもたちにとって、外に出て、身体を動かし、大勢のともだちと遊ぶことは社会的な人間となるための大きな第一歩です。幼稚園ではいろんな遊び、どろんこ、みずあそび、野原散策などして教育します。もしも「?」と感じられることがあったら、先生にきいてください。はくい幼稚園にはベテランの先生方がそろっていますから、そうやって先生と幼児教育についてお話することで、ステキなこどもたちの「育つ場」を築けたらよいなと考えております。

平成26年度5月おしらせ

幼稚園チェックポイント

 教育関係の新聞にふと目をとおしたら、よい幼稚園、保育園の選びかたという大学教授のコラムがありました。簡単にポイントをならべると、親御さんが喜ぶからとこどもたちが喜ばない教育をしているところはバツ。こどもたちの学ぶちから、集中するちからの土台つくりに注意をはらっているか、園の雰囲気は明るいか、先生は笑顔か、こどもたちは活発に遊びまわっているか、先生からの指示が命令口調になっていないか、こどもたちの結果ではなく過程を評価しているか、こどもの創造力を育てる遊具が配置されているか、こどもがストレスを発散させるような大声をあげていないか、などなど。園長として読むとドキドキします。指摘のところはたしかにうなずけるものであります。
 幼児教育は知育ではありません。知育が始まる前の段階でこれから学びをはじめる、社会性を身につける、苦難に負けずに生き抜く心を育てる、その土台をつくるのが幼児教育です。でも、結果はそんな簡単に見えませんから結果の見えやすい教育になりがちなのも事実です。ここのところは園長として(自分に)要注意なぶぶんです。こどもたちの未来のために、ずーっと先のことを考えて、今必要な教育をすべきであります。そのためには保護者の方々に教育内容についてお話しして、今みえる結果にふりまわされずに幼稚園をすすめることが大事です。
 先月のおしらせでも書きましたが、幼稚園はある意味不思議な学校であります。教育しているのか放置しているのか疑問に思うことも(きっと)あると思います。疑問は先生に訊いてください。もちろん園長にも訊いてください。そうやってやりとりをすることでしか、こどもたちに必要な育ちの環境は築けないのだと思います。

平成26年度6月おしらせ

疑うことの大切さ。

 子どもを育てるときに、一番言わないことが「疑え」ってことではないでしょうか。たしかに、社会に適応するための、たくさんのことを覚えてゆく幼稚園児にとって、大人を信用することは大切です。大人のいったとおりにすれば大丈夫だ、安全だ、大切にしてくれていると子どもたちが感じることは、そのまま将来の人間関係の基礎を築きます。大人も安定した信頼関係をこどもたちと築けるように心をくだかなければなりません。それでも、こどもたちが大きく育ってくると必要になることが、疑うことだと園長は考えています。だから、園児たちが卒園するときには、「疑いなさいね」って言うようにしています。いや、年長さんくらいから「疑いなさいね」って教えても良いのかも知れません。
 人類史上の賢人で、疑うことを強く勧めたひとがおります。仏教の開祖お釈迦様です。お釈迦様は何事も一度は疑いなさいと教えました。お釈迦様のおっしゃる教えさえも疑いなさいとおっしゃったのです。信じることは人間として必要なことです。何事も信じない状態で生きてゆくことはできません。何故だかはわからないけれど、人間の心は信じることを必要とします。同時に何事も鵜呑みにして信じると、生きてゆくことが困難になります。そしてなによりも、疑うということは自分の頭で考えるということの第一歩です。ですから、疑うというとマイナスなイメージがありますが、こどもたちには信じることの大切さだけ教えてしまいがちになるけれど、やっぱり疑うことは大事なんです。大人たちがこどもたちに望む一番のことは、成熟した大人になって、私たちが形作っているこの社会を立派に引き継いでもらうことです。人間が成熟するために不可欠なことは、心が揺さぶられ葛藤することです。何事も簡単に正解など転がっているわけではないのだと、よく知ることです。だから、時が来たら子どもたちに疑うことを教えるべきと考えます。大人としてはちょっぴり寂しいことだけど、そうやって独りの人間として巣立って行ってもらうことが我々の希望なのですから。

平成26年度7月おしらせ

消費社会の向こう側(バザーの意味)

 私たちは高度に洗練された経済至上主義の時代に生活しております。潜在的な必要はニーズとされ、そのニーズを満たす仕事でお金を儲けようと、ニーズはビジネスチャンスと見られるようになりました。そして現在、たくさんのモノ、サービスが購入できるようになりました。昔でしたら地域の、知り合い同士の助け合い、貸し借りといったことで処理されていた事項も、お金を介したサービスでまかなえるようになり、ビジネス化しました。お金があればとりあえず何でも満たされるという お金の万能感とともに、お金で買えても満たされないものがあるという 空疎感を感じることも出て来たのではないでしょうか。人間には心というものがありますから、その心のバランスが安定していないと、懸命に働いて生活に十分なお金を稼いでも、ぜんぜんオーライではないのです。
 購入できないものとはなんでしょうか、ひとつは自分で身体を動かして成し遂げた充足感ではないでしょうか。お金のやりとりを関係の基盤にしない、ビジネスを離れた人間関係もそうだと思います。お金で買える物の中から選ぶのではなく、自分にとって本当に必要なものを作ることもそうだと思います。そのようなことを考えさせられたのが、今回の幼稚園バザーの場でありました。春からミーティングを繰り返して準備して下さった保護者会のお父さんお母さん方には只只頭が下がるばかりですが、自分たちで身体を動かして創造した場、その場で楽しむという充実感は購入することのできないものです。そして、その自分たちで創造した場で遊ぶことこそが、現在のこどもたちにとって、最上の贅沢なのではないでしょうか?
 バザーの場で、お寺の境内をかけまわる園児、卒園した小学生たちのすがたは、大型ショッピングモールのアミューズメント施設でゲームに興じるこどもたちよりもずっと、表情もあかるく、いきいきと楽しそうに見えました。

平成26年度夏期保育おしらせ

夏期保育おしらせ

たまには心理学

「子供にとって家族は『世界そのもの』であり、親から愛されなければ生きていけない。そのための命がけの戦略がそのまま性格の形成につながるのだ。」

アルフレッド・アドラー

 アドラーさんはフロイト、ユングに並ぶ心理学者さんで、仏教の教えにも通じる心理学を説いております。たとえば、

「ピンク色のレンズの眼鏡をかけている人は世界がピンク色だと勘違いをしている。自分が眼鏡をかけていることに気づいていないのだ。」

これは「ピンクの眼鏡」というところを「煩悩」に置き換えることで仏教の教えになります、面白いですね。このアドラーさん、子育てについてもたくさん書いておられます。園長は「アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる100の言葉」という本(手軽で読みやすいですよ)を読みました。

「人は失敗を通じてしか学ばない。失敗を経験させ、自ら『変わろう』と決断するのを見守るのだ。」

これは、できるようになってから任せるのではなく、任せるからできるようになるのだとも教えています。

「『この子は言葉を覚えるのが遅いので……』と母親が子供の通訳を買って出る。すると子供は、自分で話す必要がなくなり、本当に言葉が遅くなるだろう。」

「他人と比較してはいけない。ほんのわずかでも、できている部分を見つけ、それに気づかせることが重要だ。」

本屋で目にする育児書より敷居が高そうな本ですが、別に難しいことはありません。気付かされる言葉の多い本なので興味のある方はご一読あれ。

平成26年度9月おしらせ

いのちのきょういく

 子どもが関わる事件が繰り返しあります。事件の度に「命の教育」ということが言われます。事件の度に子どもの家庭問題、交友関係が原因として取り上げられますが、結局はそうやって特別なことにすることで「これは私たちの問題ではないね」って片付けられ、安心され、忘れ去られてきたのではないでしょうか。
 命の大切さを知る、これはとても大事なことです。でも、大人なら誰でも命の大切さがわかっていることになっていますが、本当に命の大切さをわかっているのでしょうか?子どもに「なぜ人を殺してはいけないの?」と聞かれたらどう答えますか、人を殺すことは悪いことだと答えたとしても、続けてこう聞かれたらどうでしょう?「じゃぁ牛は?豚は?ニワトリは?ゴキブリは?アリは?他の生きものは殺してもいいのに、なぜ人間は殺してはいけないの?」言葉に詰まる大人が多いのではないでしょうか。
「なぜ人を殺してはいけないのか」これはほんとうは簡単な問題ではないのだと思います、それは哲学者が人生をかけて問うてもよいような問題なのです。私たちは何事もわかって、理解したからやるやらないのだと考えていますが、「なぜ人を殺してはいけないのか」この問いの答えは容易ではないのです。
 私たちは今を生きています。何事もすべて理解して承知してから生きているわけではありません。よくわかったら、理解してからそうするというのでは間に合わないこともたくさんあるのです。そんなときは、賢い先人の声を聴くべきではないでしょうか。何世紀にわたって、たくさんのひとに検証され護持されてきた教えがあるのはそのためなのだと園長は(今回やっと)わかったんです。
さて、仏教の開祖お釈迦様はどう言っておられるか。
「すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」(ダンマパダ)
お釈迦様が覚りを得た後教えてくださったことだから、たいせつにいただこう、生活の範としよう。そんな生き方が今こそ大事なのではないでしょうか。

平成26年度10月おしらせ

じぶんをささえるもの

 幼稚園のときしてくれるのに、小学校へいくとだんだんしてくれなくなるもの、なんだ?
それは、お手伝いです。家族からすると、幼稚園児が小さな手でしてくれるお手伝いはハラハラドキドキ、失敗も多いから 後片付けを考えると、お手伝いはもっと大きくなってからがいいと思っているのではないでしょうか。でも、子どもにとってはお手伝いすることは2つの意味で重要なのです。
 ひとつは、なんでもできるようになること。子どもが一番興味をひかれるのは大人のすることです。大人になるために必要な練習をやりたいのです。遊びは学び、学びは真似びなのです。
 ふたつめは、自分を認めてもらうこと。人間には自己承認欲求という強い気持ちがあります。それは、「私はここにいてもいいのだ」ということを満たされることです。この承認欲求が満たされないと人間は、どんなにお金があっても、健康でも、心が不安で苦しくなります。日本の自殺原因でもっとも多いのが健康問題と言いますが、それも高齢者のひとが病気を悲観して、老いて、周囲の世話にならなければ生きてゆけない自分に絶望して、自死されることが一番多いそうです。自分がいらない存在だと強く思うと死にたくなるほど苦しいのです。それは子どもも同じ。家族に愛されていると感じることができても、そのうえで家族の役に立つこと、自分が家族のメンバーとして揺るぎない位置を確保することが大きな「生きるちから」になるのです。自分は必要なんだと感じることが強い心の安定につながります。その心の安定が世界にたいする興味と集中力を養うのです。
 だから、なるだけお手伝いをお願いして下さい。なるべく子どもを頼ってあげてください。子どもたちはきっと最高の笑顔でこたえてくれるはずです。なににも代え難い子どもたちの学びの基盤になるのです。

平成26年度11月おしらせ

ときには、なんにもしない子育て

心理学者 河合隼雄さんの本にこういう話が出ていました。
 相談に来られたひとの息子はノイローゼである。息子をなんとか治そうと、よい医者がいると聞くと遠くても出かける。よい施設があればたくさんお金を費やしていかせる。漢方薬も試みた、果てはおまじないの類にまで頼ってみたが駄目であった。これだけ努力しても解決策がないのはどうしてなのか、嘆きは深くなる一方である、と。そこで河合んはふたつのことを指摘しておられる、
 相談主は努力しておられるが、ひたすら努力を続けることで、あることから逃げているのではないかと言います。ノイローゼになった息子をそのまま受容すること、子どものために父として母として「ただそこにいること」ができないのではないかと言うのです。ときに受け入れることは努力すること以上に難しいものです。そもそも、どうして努力したら物事が解決すると思い込むのか、そこが間違っているのではないか、インドの哲学者クリシュナムルチさんは「ものごとは努力によって解決しない」とハッキリ言っておられます。それでも「人間には努力くらいしかすることがないので、やらせていただくのだ」と河合さんはおっしゃいます。なるほど!解決とはあちらから来るものだからそのくらいがちょうどいいんだそうです。なるほど!
 こどもたちの教育、世話ばかりに手を尽くしているのがよい育児とは言えないだろうと園長も思います。時に、関わりたくても我慢してこどもを見守る、親の考えたとおりにならなくても、そのわが子をありのままに受け入れるのが親の役割なんじゃないでしょうか。お互い、不出来な親、不肖のこどもとして親子関係を築いてゆくのが、こどものためによいのではないかと考えます。

平成26年度12月おしらせ

やるき。

 幼稚園教育のかんじんかなめは、あそびです。英語をしたり算数を教えたり字を覚えたりすることでは、ありません。それでは、どうしてあそびが、かんじんかなめなのでしょうか?
 教育と言ったら算数国語理科社会、英語、基本的には知育です。こどもたちは学年にあわせて順番にその知識を身につけ、大人になることになっていますが、じつは、知育は遅れて始めても大丈夫なんです。外国では大学生の内容を勉強する小学生、大人になってから勉強を始めて立派に遅れを取り戻したひと、いろいろいるのです。こどもの人生を大きくとらえるなら、知育の早い遅いは大きな問題ではないのです。だけど、幼児期という人間の心と脳と身体がいちばん育つときにしか育むことができないものがあります。それは「やる気」です。
 小中高と学びを継続する「やる気」、大人になって仕事を続けて行く「やる気」、この「やる気」を育むためにはどうしたらよいのでしょうか。精神学者の名越康文さんは、『「やりたい仕事」ではなくて、「与えられた仕事」をできるだけクリエイティブにこなそうとする姿勢を持つことが肝心』とおっしゃっています。『基本的には「工夫」』だそうです。『創意工夫をしてこそ、自分の仕事であるという感覚を持てる』そうです。その工夫と切り離せないものが、こどものあそびでなのです。こどもはあそぶことが好きで、あそびには工夫が常にあります。瞬間瞬間に既存のものを自分のあそびの世界に引き入れて、そこで自分なりの意味づけをする。これが工夫する力を育み、しいては「やる気」につながるのです。もうひとつ、人間に「やる気」を出させる、よく知られた方法がありますが、オススメしません。それは、賞罰教育です。「適切な行動をとったら、ほめてもらえる。不適切な行動をとったら、罰せられる」。こうした賞罰教育が生むのは、「ほめてくれる人がいなければ、適切に行動をしない、罰する人がいなければ、不適切な行動もとる」という人間です。これは、夏期保育のおしらせでもご紹介した心理学者アドラーさんの指摘です。
さて、幼児期のこどもたちを存分にあそばせる大切さ、納得いただけたでしょうか。

平成26年度1月おしらせ

しごとにだいじなこと。

 にんげんは大人になって仕事につきます。
 仕事えらびのポイントとして、よく言われるのは、「賃金」「条件」であります。「賃金」が多くて「条件」のよい仕事に就くことが、最良とされているのです。でも、人間にはもうひとつ欠かすことができない、大切な要素があります。それは、仕事を通して人生の意味を満たすことができるかどうかです。仕事を通して充実感を得られるかという言い方もできます。
 人間は生きることに意味を求めます。どうして意味を求めるのか、それは限られた命を生きるからです。いくら沢山お金儲けをしても、いくら名声を得ても、いくら健康な生活を維持していても、最後には死んでしまう。死ぬときには何一つ持っていくことができない。だからこそ生きていることの意味が必要になります。かって、日本がまだ貧しくて、欲するものがたくさんあった頃、ひとはより快適で便利な生活を求めることで、仕事の意味を満たすことができました。そうやって、先の世代ががんばった結果、夏は涼しく冬は暖かく、いつでも美味しいものを食べることができて、ちょうどよい湯加減のお風呂に入ることができる、そういう時代になりました。じつは、この快適な生活は、お経に登場する極楽浄土の生活であります。私たちはちっとも極楽浄土に住んでいるなんて思いませんけども、はるか遠い昔のひとが想像力をふりしぼって考えた究極の快適さがいま実現されているのです。何世代にもわたって長く追い求めてきた快適さがいまここにある、こどもたちにとってはまさに生まれながらにして快適さの渦中にいる。そのことが、こどもたちの欲望を萎えさせ、人生を空虚なものに近づけているのではないでしょうか。だからこそ、生きてゆく意味に出会うことが、これまでの世代よりもはるかに重要なのだと思います。
 ところで、生きる意味を満たす仕事とは?社会の役にたっていると感じられること、ひとに感謝されること、これが自分の仕事であると思えることではないでしょうか。そして、仕事と思うとつらい時には、これは自分の役割であると考えるとよいようです。

平成26年度2月おしらせ

あたらしい、とし。

 年があけると、年長さんはいよいよ小学生になることを、年中さん、年少さん、ももさんはひとつ、おにいさんおねえさんになることをつよく意識します。
とくに、小学校での学習が始まる年長さんは、小学校一年生をうまく乗りきれるか、そのあとやってくるといわれる「9歳の壁(勉強が難しくなり始める)」を乗り越えられるのか、いよいよ娑婆世界の煩わしさに向きあっていきます。
 ところで、いまどき勉強は教えるものではありません。こどもたちに本当に身につけてほしいのは、勉強の仕方です。昔と違って各種多様な学習教材、インターネット、学ぶための手がかり足掛かりがゴロゴロ転がっている時代ですから、勉強の仕方を知っていることこそが一番の能力であります。さて、どうしたらいいでしょう。こどもというのは、大人が口で教えたことはなかなか身につきませんが、大人が背中で教えたことは痛いほど身につく存在です。ですから、普段から大人自身が何かを学ぶ、何事かを一生懸命にやる、これに勝る教育法はないと思われます。そして、やっぱり遊びを大切にすること。先日園長が受講した研修では、早すぎる教育、特に0歳児、1歳児における早期教育はこどもの成長にとってプラスどころかマイナスにはたらくという研究結果を教えていただきました。脳の発達上の障害になるそうです。そして、こどもたちの主体的で自由な遊びこそ、最高の頭と身体をつくる幼児教育であるとお話を受けました。ご講師は内田伸子さんという先生です。本もたくさん書いておられますから興味のある方はオススメであります。

平成26年度3月おしらせ

夢や希望は大事ですか?

 年長さくら組さんたちが卒園する時期になりました。毎年、卒園式でさくら組さんたちは自分の将来の夢について語ります。大人たちは、おぉーっ!っとなりながら、その夢に聞き入っているのですが、実は、園長は「別に無理に夢なんか持たなくても、大丈夫だよ」って思って見ているのです。みんなで夢を語ると、まるで夢のないこどもはいけない子みたいになってしまう。だから、ともだちに合わせて、自分の夢を選んでいる子もきっといると思うのです。
 ひさしぶりの坊さんモードに入りますが、親鸞さん(浄土真宗の祖)の教えて下さった生きかたでは、夢も希望もいりません。逆に夢を持つということは、現在不満足な私がいて、将来達成されるであろうはずの満足を追い求める姿であるよと言います。人間はいつ満足できるのでしょうか、満足するとしたら「今でしょ!(ちょっと古いですね)」であります。人間は、誰もが、どんな人もが「いま、ここに」しか生きることができない存在です。過去に満足したことのある人の満足は、すでに過ぎ去った満足ですし、将来満足する予定の人の満足は、未だ感じることのできない満足です。だから、「いま、ここ」を大切にすることを忘れたら、満足することは決してできませんよと教えて下さったのです。
 世間では子供たちが勉強しなくなったとよく言います。夢や希望を持って学業に励みなさいと教えても反応があまりないと言う学校の先生もいます。きっと、日本の生活が豊かになってしまって、勉強するのは豊かさを獲得するためという論理が機能しなくなったのです。こども達にとっては生きにくい時代になってしまったなと思います。だから、親鸞さんの智慧を拝借して、いま、ここに、この瞬間を満足できることを目指して生きることを薦めたいと思います。こどもたちが生きるのはこれからです。これまでを育ってきた大人たちとはまた違った「これから」をかれらは生きます。こどもたちが、これまでの論理を越えて、満足する生き方を獲得できるよう大人として支えたいと思う、この卒園の時期であります。