今月のえんちょうのことば

えんちょうが毎月あたまをひねって絞り出したことばです。
お坊さんモードでお話いたします。

いじめること。

オリンピックが始まりました。オリンピックまでにいろいろありましたが、なかでも考えさせられたのは、「過去のいじめ自慢」がもとでオリンピック開会式の作曲を下りた音楽家のことです。SNSで目にした表現では「むかし悪ガキだったころの自分から届いた贈り物」というものがありました。おおむね「いじめはやめよう、未来の自分に影響が出るかもしれないから」という調子で意見が交わされました。「未来の自分に損だからいじめはやめよう」率直的な戒めですが、損得でいじめを戒めても限界があるように思います。
園長は坊さんですから、坊さん的にいうと「いじめはやめたほうがいい、今日のいじめは明日の自分の一部になるから」です。わたしたちは悪いことしても誰にも知られなければいい、ばれなければいい、と世間体に重きを置いた判断をしがちです。それならば誰も知らないいじめ、悪事ならやっても大丈夫ということになります。しかし、たとえ誰も知らなくてもやったことはやったことです。「わたしってどんな人!?」という問いがあります。この問いに憑かれて自分探しの旅に出る人もいます。わたしはどんな人か、それはわたしの歴史です。どこに生まれて、どんな家族のなかで育ち、なにをやって、なにをやらなかったか、その集積がわたしではないでしょうか。なにもわたしが関わったことだけがわたしの一部ではありません。日本人のわたしは世界のどこへ行っても日本人として見られます。日本人に悪い印象を抱いている人に会えば攻撃されるかもしれません。「わたしがいったいなにをした!」と怒ってもはじまりません。日本人ということはわたしを形成する一部だからです。わたしがしたこと、わたしがしなかったこと、わたしが関わったこと、わたしが生まれてくる前にすでにあったこと、それを全部集めてわたしになるのです。仏教ではそれを宿業と言います。人間が人生において苦しむとき、その苦しみを突きつめてゆけば究極的には「自分を認めることができない」ことになります。恵まれた裕福な環境に生まれたって、自分を認める、受け入れることができなければ苦しいのです。「なんでこんなわたしなんだろう」「あいつのせいで人生がダメになった」「あのときああしていれば」自分の欲望に自分がかなわないとき、人間は自分自身を裁いて責めます。それが苦しいということです。
たとえ誰も知らないいじめでも、それはわたしの一部になります。後で悔いて謝罪しても、そして許されても、したことはなかったことになりません。だから、自分の人生を大切にするという意味で、いじめはやめておくべきです。そうは言っても人間ですから、条件が揃えば調子にのっていじめの加害者になるかもしれません。そのときは、いじめたことも引き受けていくところにしか明るい人生はありません。「犯罪被害者がいちばん癒されること」という米国の研究があります。なんだと思いますか、ひどいことをした加害者ならやっぱり死刑ですか。違います、加害者による継続的な謝罪が被害者をいちばん癒すんだそうです。人生でおこることは全てわたしの一部になります。それを引き受けていくのがわたしのいちばんおおきな仕事です。もとに戻せないからこそ、いじめをしない。それが大事です。

えんちょう先生