親というのは、親だけではなれません。かならずこどもがいて、それで親になります。だから、親のおかげで生まれてきたというはなしがありますが、こどものおかげで親になれたという事実もあるわけです。このはなしをご法事などですると、小学生、中学生くらいのこどものなかには、「ぼく(わたし)のおかげでしょ!」って顔で親御さんをみることがあって、とても微笑ましいです。ところで、親になったら生活に仕事が加わります。社会的には扶養義務といいますが、食べさせるということ以上に、人間を育てるという仕事ができます。さて、この人間を育てるという仕事、具体的に何をするのでしょうか。
いちばんに生活に必要なことを教える(自転車の乗りかたとか、紐の結びかたとか)とか、それから社会通念を教える(しつけとも言いますね)とかありますが、最も大事なのはこどもが育つ土台になることだと思います。土台になるって、具体的にいうと一緒にいることです。それだけだと思います。親の職業で関わりかたはさまざまだと思いますが、一緒にご飯を食べるとか、はなしをするとか、眠るとか、そんななんでもないように見えることがこどもの育つ土台です。人間のエネルギーの源はひとつに食べ物。もうひとつに生きていることを認められるということです。みんなから無視されると生きる気力を失うのは大人も一緒。こどもの学ぶちから、育つ原動力になるのは生きていることを認めてもらうこと。あとは真似して、勝手に育つと言ったら乱暴かもしれませんが、人はほんとうに大切なことほど自ら学ぶしかないのです。だから原動力がだいじ。
もうひとつ、こどもにたいする親の愛情という形容があります。でも、愛という言葉はときどき重たいのではないでしょうか。愛とはとても強い表現ですから、ほんと愛なんて言ったら、親は神さまか仏さまにでもならないといけない。ハードルがたかい。だから、園長自身は、自分のは「愛」じゃなくって「執着」とこの頃思います。愛と執着をどこで分けるかというと、こどもが自分に背いたとき、背いたこどもに寄り添うことができるかどうかで分けると思うのです。愛というものは、無私でなければ成り立たないです。園長はとてもそんな自信がないので、執着だと思っています。執着とは、気になって仕方ないだけということです。ずいぶんハードルが下がりますが、執着くらいでちょうどいいかもしれません。だって、こどもへの愛だということになると、愛とは立派なものですから、こどもにたいする親の行為が全て肯定されてしまいます。親のなすことぜんぶ批判できないものになってしまう。親だって人間ですから、良かれと思ってもこどものためならなかったり、こどものためだと思っていたことが、じつは自分のためだったということがあるのです。だから「愛」とは言わず「執着」だと呼ぶくらいなら、立派をはなれて気がつくこともできるかなと思うのです。それに、執着なら100点満点の親を目指さないでいいですしね。
はなしが脱線した気がします。現代人は、親だ教育だと言ってハリキリがちですが、ほんとうに大事な親の仕事は、実はなんでもないところにあると考えるのです。
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