アメリカからはじまって、世界中で差別ということが問われています。もちろん日本にも差別はあります。園長は浪人生で関西にでて、差別の問題を身近にしました。差別の問題は、遠い海のむこうや、大きな街の話ではありません。こどもたちが育ってゆく過程でも差別ということは、「いじめ」という名前になって身近になります。差別やいじめは、特定のひとを攻撃したり仲間はずれにします。園長は坊さんだからハッキリ言いますが、ひとを差別やいじめで攻撃していいことなんか、何もありません。差別やいじめをしたほうの生活も傷つきます。だから、やらないでおきましょう。でも、ここに問題が発生します。「みんななかよく」というスローガンをたてても、「いやだ、キライだ」という心は起きてくるのです。みんなをすきになることができない私という問題があります。差別やいじめる心の種がぽこぽこと湧いてくるのです。どうするのか。ひとつにそういう心がおきてきても、けっして行動にうつさないこと。ふたつに、そんなキライな相手とは距離を置いて、丁寧に接することです。これまで大人は、「みんななかよくしないとダメでしょ!」と言ってこどもを指導して来ましたが、それでは「それでもなかよくできない」という問題を乗り越えることができません。人間には一人ひとりかならず分別というものがあります。分別とは、「スキ」と「キライ」を分けるものです。「スキ」と「キライ」はじつは一対のものですから、「スキ」があれば必ず「キライ」があります。「どうしてキライなの!」と大人はよくこどもに問いますが、口で言わせても無駄です。なぜなら、人間の「キライ」の理由はそもそも無根拠だからです。「顔がキライ」「態度がキライ」言われてみればなるほどーと思いますが、それも無根拠ですね。だって世界には様々な顔の人、いろんな態度のひとがいて、そこに正しい、間違いなんてつけることはできないのですから。だから「キライ」は単なる自分の思いなんです。正しいとかと無関係で、自分でも理由がわからないけど「キライ」なだけなんです。だから、「キライ」と思うことは止められないけど、「キライ」でも、攻撃してはいけないのです。「スキ」と「キライ」の線引きはあいまいです。その時その時で変化します。もし、「世界の人間が結束して」ということがおきるなら、それは宇宙人に侵略された時でしょう。さいわいそんなことにはなっていませんが、その代わり人間は自分たちの身体や習慣の違いを見つけてキライ合っているわけです。分別があるのが人間ですから、「キライ」を無くすことはできません。その代わり、自分の「キライ」に根拠がないと知って、穏やかに済ますという方法は残っています。そもそもやったほうも損をする、差別やいじめをどうしてしてしまうのか。それは、自分の生活をたいせつにできなくなっているからではないでしょうか。自分の生活をたいせつにすることは、こどもじだい大人からたいせつにされることで身につけます。決して「甘やかしなさい」と言っているのではありません。怒るにしても、相談にのるにしても、こどもの生活を尊重することが、子育てには必要なのです。いまはキライだけど、人間ってくるくる変わるものだから、きっかけがあったら仲よしになれるかもしれないね。それくらいでよいのではないでしょうか。じっさいに入園以来の宿敵と仲よしになる事例は園長みております。