「努力」をほめられた生徒は、難しい問題でも熱心に取り込み、成績が伸びましたが、「知性」をほめられた生徒は、自分を賢く見せることに気を取られ、失敗すると挫折しやすく、難問に挑んで間違いをおかすリスクを避けるようになったそうです。
脳研究者 池谷裕二さんのツィートを拝借しました。園長も似たようなことをこの「おしらせ」で申したように思いますが、こうやって的確に書かれるといいですね。あらためてハッとします。「頭がいいね」と言われるとうれしいもんです。じつに気持ちがいいからもっと言われたい。でもそれで、うれしい言葉は同時に自分自身を縛る言葉になります。「頭がいいね」と言われると「頭のわるい」自分を外に表しにくくなる。「きちっとしてますね」と言われると「だらしなく」できなくなる。きっと「努力」もそうでしょう。いつも「努力」を褒められると、無気力な自分を封じ込めなくてはいけなくなる。だから、褒めるのも限度だと思います。そして、褒められる本人の為すべきことは、その自分を縛る褒め言葉を破ってみせることだと思います。
昭和のこどもはいい学校に行って、いい仕事について、たくさんお給料をもらったら、それだけで満足な人生をおくることができるという夢をみて育ちました。その後、平成、令和ととても豊かになった生活のなかで、すでに贅沢はこどもたちの夢ではなくなりました。だから、幼いときから習い事をして、夢を持って、自己実現を追いかけるスタイルが登場したのではないかと園長は考えています。訓練することは全く素晴らしいことです。園長は美術をやりましたけど、訓練をとおしてしか出遭うことのできない喜びは沢山あります。けれども、同時に挫折した自分を生きる柔軟さ、安定についても目を向けるべきです。
「何者」になるかなんて、自分という存在に勝手に注文をつけているわけです。「何者」かになれた自分は受け入れるけど、なれなかった自分は受け入れられないということです。でもほんとうは、自分のなりたい自分になるのではなく、現在ある自分を、いかに十全に生活するかのほうが本人にとっては大事なんじゃないでしょうか。仏教では「自分にかえりなさい」と教えます。他人の誰かではなくて、見失った自分に帰ったらほんとうに生きる喜びが湧き出てくるというのです。さて、見失った自分とはどんな自分でしょう。世自在王仏というなまえの仏さまがいらっしゃいますが、どんなとき、どんなとこ、どんな状態でも縛られないで、自分であることができる仏さんというなまえなんです。その自分はきっと自分で決めつけたような狭い自分じゃないんです。自分をもとめて脱皮をくりかえすことを成長というのではないでしょうか。