今月のえんちょうのことば

えんちょうが毎月あたまをひねって絞り出したことばです。
お坊さんモードでお話いたします。

いじめないひとになる。

 いじめがニュースになりますね。小学校の先生にだっていじめがある。さて、いじめをしない子に育ってくれるのか?今回は幼児教育の視点でなく、お坊さんの視点で書きます。まず、いじめを絶対しない人間に育つか、それは絶対と言うと無理です。縁があれば(状況がそうなれば)いじめをする可能性は誰にでもあります。えーっ!?って思われるかもしれませんが、ここ大事なところです。同時にいじめられるほうになる可能性もあります。これも縁があれば(状況によっては)そうなります。事実、最近のいじめ事例では、いじめっ子が最後にいじめられる方にまわるのもあります。世の中に善い人間と悪い人間がいて、、、という考えかたが仏教で見るとそもそも間違いなのです。誰でも加害者にも被害者にもなる。その自覚はとても大事です。そして、縁によって(状況によって)いじめをするわけですから、いじめをしない縁(状況)というのもある。
 思いやりがあれば、正義感があればいじめをしないというわけではありません。いじめをしないのは独立した人間だということです。自分は自分、ひとはひとと分けて見ることができる。自分も大事にし、ひとも大事にできるそういう人間です。いじめをするということは、いじめられるほうの存在をみとめることができないからいじめるのです。いじめたって何かいいことがあるわけじゃありません。他人に苦痛を与えたということで、いじめたほうも地獄行きの原因をつくるだけです。いじめが起きる場所にはストレスがかかっているという話もありますが、いじめることはそのストレスの解消にさえなっていません。いじめることは楽しくもないし、何かの発散にもならない。でも、いじめる。それは、いじめることで盛り上がるからです。その盛り上がることを「おもしろい」と錯覚している。それは錯覚ですから、いじめることで心に満足を得るということはありません。満足がないというのはいじめるほうも心当たりがあるのではないでしょうか。いじめたということは、思い出としてもよくないし、むしろ忘れたいことなんじゃないでしょうか。
ポイントはいじめないひとになることじゃなくて、いじめなくてすむひとになることです。ちょっと受け入れられないひとがいても、それが生活環境を損なうようなものでなければ、ほおっておけるということです。心がひろいとも、安定しているとも言えます。一つには自分自身の存在が認められているという感覚があること。家庭でも、友達でも、教師でも、自分の存在をそのまま認めてくれるひとがいるということ。同時に叱ってくれるひとがいるというのも大事です。二つには一生懸命になれるものがあるということ。いじめにつかう時間と労力をより楽しいことにふりむけられること。三つに自分を大切にできること。いじめることで自分自身も傷つけるのですから、いじめるということは、自分で自分が好きでないのでしょう。そういうときは、どうして自分が自分を好きになれないのか、ようく考えてみるしかありません。一つめに関係しますが、自分を大切にしてくれる人間がいることで、自分を大切にするということが生まれてくるのではないでしょうか。これは長い人生をとおして人間に必要なことです。こどもだけじゃなく、親にとっても必要なことです。いじめないですむ縁(状況)を心がけてゆくことは、なにもこどもだけの問題じゃないのです。

えんちょう先生