どくおや(毒親)、老害とか親ガチャとか、決めて糾弾する言葉は嫌いなので避けてるのですが、このごろ「毒親」という言葉が話題にたくさんでて、子育て中のひとは心配になるのじゃないかと、(すごく坊さんてきな話になるかと思いますが)園長の考えをもうします。
毒親という言葉にふれていると、きっと自分も、自分のこどもにたいして毒親になるんじゃないかって、そんな心配が生まれるのではないでしょうか。結論からもうしますと、毒親だと思っているくらいで丁度いいと思います。いや、毒親になるんじゃないかって心配になるのは、やはり「こどものためになりたい」って心があるからで、「わたし毒親なんじゃないか」という心配がないときのほうが危険なのではないでしょうか。「こどものためになる」と言いますが、それはご飯を食べさせて、世話をして、学費を出していれば済むというものではないし、何不自由ない生活をさせていても、心理的にこどもを縛って追いつめているということもあります。毒親でない条件をつけるとしたら、こどもに問題が起きていないということくらいしかないけれど、大人になってから問題になって、遡って親子関係が言われることもあるのですから、もう「わたしは毒親なんかじゃありません」なんて、誰も言えないと思うのです。
仏教では、人間は自分中心に物事をみるということを離れられないものだと言います。だからこどもの良いも悪いも、すべて親の視点中心にしか見えてこないです。純粋に「こどものためになりたい」と願っても、甘やかして育てればこどもは将来苦労するし、厳しく育てれば虐待になるかもしれない。親の価値観で育てても、こどもの人生を通じて支える価値じゃないかもしれない。もうどうにもこうにも正解がない。だけど願いはある。その願いがいちばん純粋な形で表れるのが「わたし毒親なんじゃないか」って心配なのだと思います。正解がないなら、もうわたしは毒親だと思っておけば間違いないと思います。その毒親が、毒親なりにこどものことをおもって子育てするのです。やることなすこと親視点で濁っているけど、心配になりながらウロウロ、ソワソワ、泣いたり怒ったりしてする子育て、それ以外にどうすることができるでしょうか。お釈迦さまの教えは、「思って作った自分を生きるからいけない、ほんとう(真実)に照らした自分を生きなさい」というものです。だから、願いをかかえて奮闘する毒親を認めて励ましてくださいます。
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