今月のえんちょうのことば

えんちょうが毎月あたまをひねって絞り出したことばです。
お坊さんモードでお話いたします。

仏教式こそだて法

 先月は「いじめ」ということについてお坊さん立場で書きました。今月は一歩進めて、仏教でみた子育てってことで書こうと思います。と、いうか読書していたら大事なことが書いてあったんです。

 世間でいろいろな事件があります。人を害する事件があったり、薬に手を出したり。世の中こわい人がいるねー、ダメな人がいるねー、では済まない。自分や家族が被害者になったらどうしよう、まして自分や家族が加害者になったらどうしようと、可能性を考えたら無事な生活も灰色に暗くなります。子どもが人を害したり、薬をやったりしないで育ってほしいとは、家族の願いですが、それを仏教ではどうみるのでしょうか。

 仏教では悪事をする根性は誰にでもあると言います。うちの子はやさしいから大丈夫、ではなくて、やさしい子も、しっかりした子も、こわがりの子も可能性としては持っているのです。ただ、キッカケ(仏教では「縁」といいます)が無ければそれは可能性で終わります。例えば、道端にエンジンがかかったままの自動車が無人で停められている「この自動車、このまま乗って行っちゃったらどうかな?」なんて、思いません?しませんけど。自動車に勝手に乗って行ってしまう、その後に起こることを考えたらしませんよね。それは縁がないからです。もしも自暴自棄で、なんでもやってやれという心のときにそんな自動車に出遭ったら、やるかもしれません。お米だって、田んぼに蒔かれたら芽を出す。炊飯器に入ったらご飯になる。可能性としては稲になる可能性をお米はみんな持っている。でも、縁によっては稲ではなくてご飯になる。
子どももそうです。悪事をする可能性はみんな持っている。だけど、縁がなければ悪事をなさない。これを注意深くやるのが子育てというものです。水には波が立つという性質があります。けれども勝手に波が立つわけでない、外から風が吹くから波が立つ。風は縁です、縁は外にある。けれども波は水から出るもので、風から出るのではない。だから、子どもの育つ環境に風が入らないように、注意深く気をつけて守っていかねばならない。それが家庭教育というものでしょう。子どもは、大人が教えたとおりにはなかなか育ちません。けれど、大人のしていることをとても詳細に見ています。子は親の背中をみて育つなんて言葉がありますが、まさにそのとおり。子育ては親の思わぬうちに親の生活を縁として出来上がってゆくのです。ある意味、親にとってはホラ〜なはなしですね。
※ 今回の文は「仲野良俊著作集十一 歎異抄二」のおはなしを基に書いております。

えんちょう先生