今月のえんちょうのことば

えんちょうが毎月あたまをひねって絞り出したことばです。
お坊さんモードでお話いたします。

勉強とあそび

いま、勉強する理由を世間一般の感覚でいうと、「勉強したら未来にいい生活があるから」と、「勉強して競争に勝たなければ損をするから」のふたつじゃないでしょうか。少なくとも園長は昔そうとらえて学校に通っておりました。だから、勉強は我慢してやるものだと、それで苦労したなと思います。
掃除、洗濯、炊事、皿洗い、これも生活してゆくために必要な雑用だと思われているのじゃないでしょうか。でも、掃除するのが楽しくてしかたないことはないですか、炊事は料理と言いかえると大好きなひとはいますね。洗濯、皿洗いだってスイッチがはいれば楽しいです。人生で成功したひとの姿として、家事をお手伝いさんにやってもらうとか、家に料理人がいるなんてのが(いつの時代かな)ありますが、ほんとうにそれがいい生活なのでしょうか、どうでしょうか。

仏教では「人間が一生のうちにすることは、どちらかと言うならばすべて苦だ。しかし、それを妄想して楽しいと感じたりしている。」と言います。勉強もゲームも両方とも「苦」なんです!旅館でくつろぐのも、自宅であくせく生活するのも同じなんです。そこに「妄想」の違いがあって「ストレス」と「癒し」に分かれている。だから楽しいことなら何時間やっても大丈夫、じゃないです。楽しすぎて身体を壊すことがあります。妄想が破れると、それまで楽しかったはずのものが逆に苦しみになることもあります。人間とは複雑なものです。だから人間の妄想がポイントです。
人間の妄想はどのようにできるかと言うと、育つうちにできます。生活する環境で、自分の経験をとおして妄想はできます。妄想ができるのを「刷り込み」ともいいます。大人の生活する姿をみて、何を喜び何を嫌がっているのかをみて、大人に言われたこともあって、刷り込まれます。「いま我慢して勉強したら将来いいことがある」なんて刷り込まれたら、必ずいまの勉強は不快なものになります。「損をするのが嫌だから勉強する」というのも悲惨ですね、ちからがでません。
そして、「勉強が嫌い」とか、「掃除が嫌、家事は雑用」と刷り込まれてしまったこどもの将来は困難になります。ほんらい前向きにできる可能性のあるものを、我慢してやるしかなくなるからです。勉強に面白さを見つけるこどもより、勉強を仕方なくやるこどもは勉強に苦労が多くて、そのくせ勉強がなかなか身につきません。家事が嫌いなひとが一人暮らしをしたら、、、想像するのも恐ろしいことになりますね。どうしてこどもは勉強が嫌いになったのか、実は大昔のこどもは勉強が、学校が好きでした。そのころ、大人は学校へ行って勉強するくらいなら家を手伝ってほしいと考えました。それがひっくり返ったのは戦争が終わったあとです。勉強していい学校をでたら給料のたかい仕事についた!社会生活を有利に運ぶことができた!だから勉強していい学校に進もうと変化しました。そして、勉強がいい生活ための手段になったとたん、こどもは勉強嫌いになったのではないでしょうか。何ごとも、楽しんでやる工夫が大事だと思います。「いまは何のためにあるのか、それはいまのためにあるとしか言えない」とあるお坊さんの言葉です。

えんちょう先生